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しょうじたろう

秋田県秋田市台所町二番地に生まれた。 1908年、父大象が秋田県庁を辞職。南満州鉄道株式会社に入社。両親は満州へ。 東海林は祖母カツの下で生活する。秋田中学時代にヴァイオリンに魅せられ、満州にいる父に懇願するが逆鱗にふれ断念。 秋田県立秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)を卒業。東京に上京し国民英学校に学び、早稲田大学商学部予科に入学する。 卒業間際に庄司久子と結婚した。佐野学に研究科でマルクス経済学を学ぶ。 研究科修了後、1923年9月南満州鉄道株式会社に入社、庶務部調査課に勤務。 「満州に於ける産業組合」を脱稿するが、あまりにも左翼的ということにより、1927年鉄嶺の図書館に左遷される。 音楽の夢が捨てきれず、満鉄には7年間勤務したが、その後、退社して帰国。弟三郎と早稲田鶴巻町で中華料理店を経営。 声楽を下八川圭祐に師事し音楽コンクールの声楽部門で「我恨まず」(シューマン)「仮面舞踏会」からの アリア「レナートの詠唱」を独唱し入賞した。 流行歌のレコードはニットーレコードで「宇治茶摘唄」の吹込みが最初。 大日本雄辯會講談社レコード部(現:キングレコード)専属になり1933年プロ歌手となった。 「河原月夜」「山は夕焼け」などを吹込む。放送オペラにも出演。「椿姫」では医師の役を演じた。 日本ポリドール蓄音機株式会社(現:ポリドール・レコード)で吹込んだ「赤城の子守歌」が1934年2月新譜で発売され 空前のヒットとなった。その年には「国境の町」も大ヒットし歌手としての地位を確立した。 後ポリドール専属となり澄んだバリトンを活かして「むらさき小唄」「名月赤城山」「麦と兵隊」「旅笠道中」「すみだ川」 「湖底の故郷」などのヒット歌謡で東海林太郎時代を到来させた。 また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。 大戦中はテイチクへ移籍し、「あゝ草枕幾度ぞ」や「琵琶湖哀歌」、「戦友の遺骨を抱いて」などを吹き込んでいる。 戦後は、戦前のヒット曲が軍国主義に繋がるとして国粋的なヤクザものが禁止され、進駐軍から睨まれ不遇の時代が続いた。 1946年ポリドール復帰第一作が「さらば赤城よ」。1949年、キングレコードへ復帰。1953年、日本マーキュリーレコードへ移籍。 その後、次第に地方公演で人気を回復、1957年、東京浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活25周年記念公演」を開催。 1963年に任意団体(当時)日本歌手協会初代会長に就任。空前のなつかしの歌声ブームのなか東海林太郎の人気が復活し、 懐メロ番組に出演したりして脚光を浴びた。1972年10月4日、事務所で打ち合わせの最中に脳出血で倒れ、この世を去った。 葬儀は史上初めての音楽葬であった。 NHK紅白歌合戦には、第1回・第6回・第7回・第16回の計4回出場している。 直立不動のスタイルは剣豪宮本武蔵を彷彿させるものであり、「一唱民楽」の言葉のごとく、 「歌は民のため」という信念を持ち、あの常に真剣勝負の姿の歌唱魂は激動の昭和を生き抜いた時代精神を表している。 生前「マイク一本四方が私の道場です。大劇場であろうとキャバレーの舞台であろうと変わりありません。」と述べていた。 また、彼の人生は癌との闘いでもあり、病魔を克服しての音楽人生だった。(wikipwdia) 「東海林」という苗字はなぜ「しょうじ」と読むのかな?、と思っている人も多いと思います。「しょうじ」とは荘園の管理者のことです(荘司)。つまり東海林(とうかいりん)さんが、その昔、荘園の管理者だったということらしいのです。「東海林」とは「東海(中部地方南部)」の「林」さん(大陸渡来の林(リン)氏由来)、という意味だそうなのですが、山形、秋田、宮城県に多い苗字です。庄家(しょうや)の「庄」も荘園のことです。 難読人名の苗字は色々あります。下鴨神社に「御手洗川(みたらしがわ)」という小さな流れがありましたが、御手洗(みたらし(い))さんという苗字も存在します。御手洗川は「みたらしダンゴ」の語源です。御手洗潔(みたらいきよし)は島田荘司さんの推理小説の主人公・探偵です。 私が高校の時も煤孫(すすまご)先生、寒河江(さがえ)先生、などがいらっしゃいました。これは苗字ではありませんが、忍冬子(にとこ)さん、という方も居られました。「忍冬」とはスイカズラのことです。高校の教卓には座席表にネームスタンプを押したものが置いてありました。「?徹(とおる)」さんという方が居たのですが、誰かが「大」をネームスタンプっぽい文字で落書きしたらしく「?大徹(だいてつ)!(相撲力士の四股名)」と点呼を取る先生がいたそうで、「生徒の名前くらい覚えてくれよ(大徹なんて生徒、居るか?)。」と可笑しく思ったのを、懐かしく覚えています。 大船渡市、陸前高田市、三陸町、住田町の温暖な海岸地帯は、昔はケセンの国と呼ばれていたそうです。この地方の郡司は平安時代は金氏でした。今でも金野、菅野、今野、など金氏に由来する苗字がいっぱいあって、沿岸っぽいなあ、と思います。ケセン語というのは、カナではなくローマ字表記を正書法とするこの地方の方言です。「肉、キライだもの」で、大船渡高校の野球部が1985年春の甲子園で大活躍したことは、私よりも上の世代の多くの岩手県人の誇りとなっている(野球部のナインの名前も「金野」「菅野」「今野」のような名前ばかりでした)、と書いたのですが、ついでに書くと新日鐵釜石のラグビー部(現・釜石シーウェイブス)も1978年?1984年、日本選手権で前人未到の7連覇を達成しています。当時の主力選手は、松尾雄治さん(スタンドオフ)、洞口孝治さん(右プロップ)、千田美智仁さん(ナンバー8)、森重隆さん(センターバック)、谷藤尚之さん(フルバック)、小林日出夫さん(スタンドオフ)、などです。私の祖父の家にも、この方々のサイン色紙(コピーしたものかも知れません、岩手日報から貰ったものと思われる)がありました。ナンバー8はラグビーのフォワードの中で最も華のあるポジション(体の大きさ、スピードとパワー、的確な判断力など、総合的に高い能力が求められる)だという私のイメージは、たぶん千田さんのものです。 「ケセン」がカタカナなのには複数の説があるようです(1. 宮城県桃生郡の計仙麻(けせま)大嶋神社に由来、2. カセマ(枷間)が転じたもの、3. ケセはケシの転で、キシと同じ「崖」の意味、4. アイヌ語で「ケセ(終、下)」から「下のはずれ、末端」5. アイヌ語で「ケセ・マ(削りをせおう海や所)」6. さんずいに氣・先(けせん)からきたもので海道の入り口の郷村)。ただおそらく2以外は同一の起源ですね。 中学校のときには巨勢(こせ)さん、という方が居られました。 大学に入ると阿比留(あびる)さん、上横手(うわよこて)先生、という方が居られました。京阪沿線には私市(きさいち)という駅がありました。サークルの同僚には百々(どど)さん、という方も居ました。 妻の友人の方には五百住(いおずみ)さん、という方が居られます。「五百旗頭」は「いおきべ」と読みます。 水川という苗字は「みずかわ」「みながわ」と読みそうな気がするのですが、水川政輝(ふくとめまさてる)さんの場合「ふくとめ」と読むそうなのです。これは本当に難しい。何かの間違いかもしれませんので出典を記載しておきます(http://www.person.cbr-j.com/nandoku.htm)。昔、難読苗字の本でも「西=にしあまね」という記載がありました。江戸?明治時代の啓蒙家、西周(にしあまね)のことで、この記載は誤りです。 森博嗣さんの小説には纐纈(こうけつ)さん、という方が出てきます。「纐纈」とは奈良時代に流行した絞り染めの技法で、東海地方の苗字です。 マンガ「龍 -RON-」には百鬼(なきり)という人が出てきました。これは静岡県の苗字です。鬼を「撫で切り(ナデキリ)」したことで、賜った苗字だそうです。 上遠野さんは「かどの」と読みます。俳優の六平直政さんの「六平」は「むさか」と読みます。素晴らしい性格俳優なのですが、個人的に筑波大学の齋藤康典先生は六平直政さんに似ている、と思います。齋藤先生とはフランスの学会で同室になったことがあります。その節はお世話になりました。齋藤先生は「イタボヤ」で書いた丘浅次郎先生や渡邊浩先生のお弟子さんで、「ペム」で書いた倉林さんのお師匠です。 ところで私は苗字(名字)、姓を全て同一のファミリー・ネームという意味で使用していますが、本来これらの意味は異なるのだそうです。つまり姓(本姓)は氏のことで「源平藤橘」などですが、苗字(名字)は呼び名です。足利尊氏の苗字は「足利」ですが、姓は「源」です。「みなもとのよりとも」のように「の」が入る名前が姓だということです。 (引用;http://feynmanino.watson.jp/398_difficult.html)



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